OMATSURIKOZO's talk salon


ランダムアクセス 1996年 3月 連載107回

パソコン大衆化で失っていくものを取り戻そう
今月号は少しヨタ話、パソコン情報の横溢に食傷しちゃった


 今年の冬の寒さは半端ではないですね。寒さに弱い私は震え上がり、毎夜寒さしのぎに酒をあおるため(このところ酒の飲み過ぎが続いているので、寒さはそれの言い訳)、最近は脳軟化症に陥りそうです。健全な「PC通信」のみなさんは、私のような馬鹿げた生活を送ってはいないでしょうが、風邪を召さないよう、元気にこの冬を過ごして下さい。

ちょっとウダ話から

 さて、今月はどんな話から始めようかと考えたら、パソコン状況の急変遷の話題はつきないと思うのですが、どうもいまいち話に乗りきれないのです。そこで、ここは少しばかり「ウダ話(ウダ話という言葉の解釈については昔やったことがあるのですが、要するにヨタ話程度に考えて下さい)」から始めてみましょう。
 最近、私はなぜかパソコンに熱くなれないのです。確かにWIN95も導入し、ハード環境もそこそこに完備し、インターネットのホームページごっこにと、「旬」のパソコンごっこは続けているのですが、「熱っぽさ」と言う奴が私の中に欠けてきているのです。そうですね、これは単にパソコン状況があまり活況ではない(いや、パソコン状況は今までにないくらい活況とも言えるでしょう)と言うよりも、私の中の何かが躍動感とか感動とかに鈍感になってきているようなのです。

少し落ち込んでいた時代

 1960年代の末に20歳になった私は、いわゆる全共闘時代の真っ直中に生き、充実なのか熱病なのか分からない数年間を過ごしたわけですが、その後の10年近くはある種の空白感を味わったものでした。その間の10年間にしても、別段仕事(そんな学生時代を過ごしたものですから、世に言う普通の就職をしたわけでなく、土方仕事に入ったわけですが、性にあったかどうか分からないまでも、今日までその周辺で飯を食っています)に熱情がなかったわけでもなく、自分に与えられた仕事は人一倍こなしたし、それなりに充実したものは感じてはいたのですが、社会情勢とか活字文化とかと言ったものに疎遠になってしまったのです。たとえば、学生時代には本屋を見かけると新刊本の店であれ、古本屋であれ、好奇心の固まりのように、本の背表紙を一日中眺めていることだけで楽しかったり、映画、演劇、美術、マンガ、新聞、挙げ句の果てには政治機関誌さえも楽しく読めたものでした。それが、その間の10年間では、本屋に入り、新刊本が積み重ねられているのを見るだけである種の嘔吐に見舞われたのです。どんどんと積み上げられる書籍を見るにつけ、「おまえはまだこんな本も読んでないのか」と責め立てられているような強迫観念と、「こんなつまらない本を並べやがって」という独善性が葛藤して、本屋に立ち寄ることすら無くなってしまったことがありました。

パソコンに熱くなった頃

 今の私のパソコンに対する感覚というのが、どうもその時期の私によく似ているような感じなのです。かっての10年を経験した後、私は活字文化とも再会できたわけですが、それだけではなく、生まれたばかりの頃のパソコンと付き合うようになり、15年をパソコンの勃興期と共に過ごしたわけです。生まれたばかりの頃のパソコンまでは知りませんが、よちよち歩きのパソコン(アメリカではアップル、日本ではNECのPC8001、シャープのMZ、富士通のFM8などの8ビットパソコンが産声を上げていた)がBASICのおまじないと共に第1次黎明期を迎えたとき、私も好奇心に駆られ、パソコン戦線に参戦したのです。当時、私はパソコンはいずれビジネスに使えるとは思いつつ、それを取り立てて利用しようなんて気はなく、「こんな面白いおもちゃが個人でも購入できる」という喜びのほうが大きく、毎日キーボードを叩いては雑誌のBASICプログラムを打ち込んだりしたものでした。ひとつのゲームを打ち込み終わり、RUNさせると暴走。うーん、デバッグ。マシン語の意味も分からず、チェックサムさえ打ち込んで、ハチャムチャ。数少ない雑誌をむさぼり読み、チェックサムの意味を知ったときの感動と、「インベーダーゲーム」が自分のマシンで動いたときの感動を、今ではだんだん忘れてきたような思いです。パソコンを巡る環境は、今の時代ほどの速さではないものの、他のビジネス世界よりは遥かに速い流れで、パソコンと共に生きることで時代感覚を磨けたとも思っています。
 98VM時代に入り、「パソコンはビジネスに使える」と友人たちに勧めた頃、私はパソコン伝道師だったわけで、人に勧める以上自分もソフトの使い方を覚えなければと、「一太郎Ver3」と「ロータス1−2−3」を自習した頃がありました。今振り返って見れば、どうも全共闘時代のオルグ(個人的宣伝活動)を思い出していたのかも知れません。パソコンソフトがプロテクトオンリーだった時代、「プロテクト」を潰すことがひとつの正義と感じたこと、パソコンを普及させるためにはソフトコピー品を廻すことも厭わなかった時代、日本のディフェクトスタンダードとして98を担いだ時代、この文章を書きながら、この15年を懐かしく懐古してしまいました。1年に一度バージョンアップされるパソコン新製品、次々に発売されるとはいえ使いこなせるだけの余裕があったアプリケーション、うーん、懐かしい。

パソコンに熱くなれなくなった理由

 どうもその辺に問題がありそうです。本屋に入って、溢れかえるパソコン関係の雑誌、書籍。どれもこれも似たり寄ったりの企画に近く、取り立てて新鮮でもないけれど、とりあえず目を通しておこうと購入するものの、結局流し読みだけで済んでしまう今日この頃。新製品の情報だって、発表されるだろうと言う予測の範囲の中でしか見つけることができない。確かにパソコンは一般社会で認知されたのかも知れないが、あのわくわくした感じのものから、日常製品に成り下がってしまったのだよ。そうなんだ、一番の問題は、パソコンマスコミの最大の正義である「パソコンは特別のものではなく、素人が当たり前に使えるものになること」という命題が、パソコンの高揚感を薄めてきたのだ。
 うん、ここは逆説だ。「パソコンは素人が使っちゃいけない。今では持っていることが普通のことと言われている車だって、数十万円と1ヶ月の試練の後に免許が与えられる、ある種の特殊技能なのだ。だったら、パソコンだってそんなに簡単に幼児から年寄りまで、と言う日常の中にどっぷり浸かってしまうようなものになってはいけないのだ」という命題だって正義(?)じゃないのか。どうも、最近の民主主義の正義という奴は、どちらかと言えば愚者の正義に彩られ、衆を頼んだ迎合主義に陥ってしまっているのではないだろうか。と言ってしまえば選民主義と非難はされるだろうが、一方の論理だけが一人歩きし始めると私にはどうもしっくりこなくなってしまう。

ユーザーのためにと言う正義の意味

 どうもその辺だ。最近発刊されたばかりの「パソコン批評」(マイナーな雑誌ですが、建前の美しさに現在はそこそこ売れているようです。私は同じ雑誌社の「ゲーム批評」は多少評価しているのですが)なんて雑誌は、批評精神を確立するために広告を入れませんなんて書いていますが、内容が全くない雑誌に批評精神なんて正義をおためごかしに言うんじゃねぇって、叫んでしまいました。「大衆のために、ユーザーのために」なんてせりふが台頭し始めたとき、「どっか、胡散臭い」って言う感覚を持つことが大切で、最近の私は、このあたりが整理でききれてなかったのかなって、感じ始めたところです。当然、「メーカーの利益のため」なんてせりふはあまりの時代錯誤のせりふであるため、大上段に構えられませんが、資本主義の原則から考えればこの論理は現在も生きています。しかし、現在では「大衆のために、ユーザーのために」という正義の御旗の裏に、対立するのではなく、巧妙に潜んでいるのではないでしょうか。
 パソコンハードのあまりのスピードの速さと、アプリケーションの使いもしない機能のバージョンアップの速さと、パソコン=大衆の味方という錦の御旗の胡散臭さを感じながらも、その流れのあまりの勢いに異議申し立てができなかったことが、私の停滞感だったのでしょう。うん、分かった。ここまで来たら、暴言を言わせてもらいましょう。「新製品で自分のマシンが古くなった、メーカーは新製品を発売するのをもう少し先送りするとか、アップグレードを考えてくれ」とか、「マニュアルは分かりにくいから、マニュアルは読んだこともない」とか、「ソフトが高いからコピーは当然だ」とか、「なんにも考えなくても使えるパソコンがあったら購入するのに」とかの戯言が通用するのを断固拒否し、自分のしたいことのためにパソコンを利用したり、そのために勉強をするものだけがパソコンを使えばいいという、選民主義を打ち立てることが次世代のパソコン文化を生み出すと叫ぼう。「パソコンを使えないものは次世代に生き残れない」などと言う妄言にたぶらかされて、パソコンを購入し、文句をたらたら並べている連中はくたばってしまえ。「パソコンなんて使えなくったって生き抜いてみせるぞ」という気骨のあるもののほうが、パソコン文化を発展させる反面教師の同士だと言っておこう。

大衆化で失ったもの

 この話を20歳の長女に話したところ、「私はパソコンはせめてビデオくらいにはなって欲しい」と言いました。「おいおい、パソコンは専用機ではないんだぞ」、「単なるワープロとして使うだけなら、現在のインストール済みパソコンはビデオ並じゃないか」「それ以上のことに手を出そうとしたら、やっぱり勉強すべきだし、勉強しない奴らがパソコンは難しすぎるなんて文句を言うのなら、そういう人たちはパソコンを使わなくてもいい」と言葉に熱が入ってしまいました。パソコン大衆主義は、パソコンハードとソフトの値段を押し下げ、新たな挑戦者たちの敷居を低くした功績がありますが、大衆衆愚正義の蔓延が私のようなものを生み出してしまっているのではないでしょうか。
 思えばパソコン状況のスピードの速さは、他の産業の成長の10倍にも当たるもので、私がパソコンに心を奪われたのは、その周辺で新しいものを次々と生み出していくパイオニアたちの息吹を感じていたかったのかも知れません。その発明物があだ花的なものであったり、際物的であっても、私たちを感動させてくれる何者かを持っていましたし、数少なかったパソコン雑誌ではプロテクトの解析、ゲームの攻略方法、新技術の動向だとか何かわくわくさせるものがありました。ところが、現在これだけハードの種類とパソコン関係の本が出ていても、わくわくさせてくれる何者かが失われてきているとは思いませんか。これは、未知なものに対する好奇心で支えられていたパソコン状況が、みんなにわかりやすいパソコン状況に変化していく過程で、削り取られていったものがあるからなのでしょう。溢れかえる情報は、時として好奇心を分散させ、本質を見失うことになるのかも知れません。

権利と義務

 市民社会が成熟し、「個」が重要視される時代だとか評論家たちは語っていますが、本当に成熟した「個」が生み出されてきているのでしょうか。「権利を主張する前に、義務を果たせ」なんていう年寄りじみたせりふを30年近く前、成人式で聞いて「くそくらえ」と感じた記憶があります。この意識は今でも変わりませんが、彼らはその時どのような意識でそのせりふを喋ったのかという想像は、もう少し深いものに変わってきました。かっては、「生意気な若造たちが権利意識だけを突出させやがって」という大人意識の固まりのように感じていたのですが、最近では「自分の権利を主張する前に、少し勉強をしたら他者の考えも理解でき、自分の権利の正当性が客観的に認識できるのではないか」と言った深い意味を単純化させて話したために、本質的な意味を失っていたのではないかなどとも考えるようになってきました。「権利」に対する反語として「義務」を語るのではなく、二つの概念がうまく混じり合う概念と言葉の創出が求められているのかも知れません。押しつぶされていた封建時代の「個の権利」を取り返すための反動として、「個」の主張には時代的な意味があったのでしょうが、どうも最近制御が利かなくなっているのではないか、謙虚さを失った「個の権利」が横行して、社会をギスギスしたものに変えていっているのではないだろうかと考えるのです。「成熟した個」の集まる社会は、幼稚なわがままと譲れない権利とが明確に区別される社会だろうと思います。

社会とパソコン状況

 つまり、パソコン世界が小さくて閉鎖的であった時代においては、「夢」とか「可能性」、「好奇心」とかが優先するある種のパラノイアたちのパラダイスだったのですが、パソコン世界がぐんぐん広がってくると、今の社会に蔓延しているいろんな意識がやっぱりパソコン状況に反映されてきて、だんだん卑小なものに成り下がってきているのではないかと思うのです。
 パソコンはこれからもますます大衆化していくものだろうし、もっともっと扱いやすいものに変わっていくだろうけれど、大衆化=卑小化に陥ることだけは勘弁してもらいたい。確かにパソコンは優秀な事務機だろうし、生産機でもあろうけれど、ただそれだけのものに成り下がって欲しくない。何か人を感動させるものを内包する存在であり続けて欲しいのです。
 確かに現在のパソコンはまだまだ過渡期的なもので、誰でもが自由に扱えるものではないと言った主張は正論であり、だからこそパソコンはもっとユーザーインターフェースを充実させるべきだという意見には賛成します。しかし、過渡期のパソコンであるという認識を持たないで、パソコンが製品として売り出されている以上ユーザーを満足させる完成品としてのものを性急に求めてしまうなら、話は変わってきます。こうした主張は、ますます広がっていくだろうパソコンの可能性をもぎ取り、パソコンから「夢」を奪ってしまう可能性が高いのです。

上手なパソコンとのつきあい方

 仕事関係の人と話していてパソコンの話題が出た時、よく「それであなたはパソコンで何をしているのですか」と訊ねられます。相手がパソコンを単なる道具としてしか考えてないような場合、そこで話は宙ぶらりんになってしまいます。ところがパソコンが道具であるという事実以上に、パソコンに「面白さ」を感じている人とは話題がどんどん広がっていきます。パソコンを道具として利用しているだけでも、それなりに上手なつきあい方をしている人もいるでしょうが、パソコンを仕方なく仕事で使っている人と出会うと悲しくなってしまいます。パソコンとつきあっていく内に、「あっ、こんなこともできた、あんなこともできた」とワクワクする関係を作っていきたいものだと思っています。


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