OMATSURIKOZO HOMEPAGE RANDOM ACCSESS 1997-10
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1997年 10月
連載126回
パソコン話しは小休止
今月はトルコ・EU旅行記だ
ジョブスの鎖国路線は
Macの未来を暗くするぞ
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秋風が心地よい、さわやかな季節です。秋祭りも真っ盛りの頃ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
私は、夏のトルコ旅行に引き続き、9月のはじめには我が社で初の海外出張に出かけました。イギリス・オランダを回る出張だったので、寄り道をしてドイツ・デュッセルドルフにいる妹尾さんも尋ねてきました。7月にはhillsさんもドイツ・オランダを訪ねたわけですから、日本からたくさんの友人を迎える妹尾さんも大変だったことでしょう。私の方も帰国後いささかくたびれ気味で、今月は原稿をどう書いたらいいのか迷っているところです。
続けざまの海外旅行を体験してしまったわけですが、パソコンネタになるような体験はほとんどありませんでした。それでもなかなか楽しい思い出があるので、今月は少しパソコンネタを離れてトルコ・ヨーロッパのお話をしてみましょう。
トルコってどんな国
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「トルコ旅行に出かける」と友人達に言うと、「えっ、何でトルコなんだ」と言う返事をよく貰いました。ハワイ・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアといった地域は海外旅行でもメジャーなところですが、トルコというとまだまだマイナーなところです。ではどうしてトルコに旅立とうと思ったと言えば、ヨーロッパを巡る旅を何度か経験したとき、ローマ時代から中世に至る3世紀から11世紀までのヨーロッパの歴史は稀薄で、この時代は世界史ではどうなっていたのだろうと言う興味からトルコに行き着いたわけです。
ヨーロッパとアジアにまたがる都市・イスタンブールなんて、聞いただけで魅力的でしょう。私はトルコに着くまでトルコはイスラム文化だけの国と思っていたのですが、あの地域はローマ時代後期から10世紀まではキリスト教文化の地域だったのですね。旅をしてみて初めて知ったことも多いのですが(要するに私が勉強をしていなかっただけなのですが、その地域を尋ねて知ることは大きいですよ)、トルコ人というのは元々あの地域にはいなかったんですね。イスタンブール(コンスタンチノープル)を首都とした東ローマ帝国からビザンチン帝国が支配していたキリスト教文化の国に、中央アジアから生まれたトルコ民族がアラビアに生まれたイスラム文化を吸収しながらあの地域に進出してきて、11世紀にトルコ帝国を打ち建てたんですね。そのトルコ帝国が第1次世界大戦においてドイツと組んで敗北し、支配地域全てが譲渡させられた上、トルコ本国までも分割されると言う時点で、トルコ共和国として独立したのです。この独立に貢献した人がアタチュルク(建国の父)と呼ばれる人で、彼がトルコ共和国の建国のモデルとしたのが明治維新の日本だったそうです。大国ロシアを相手にして勝利した東洋の小国は、彼にとっては魅力的な国に映ったのでしょう。イスラム教世界の多くの国ではまだお酒がタブーとなっているところが多いのですが、トルコではおいしいワインが豊富に飲めます。これも政教分離・義務教育など近代国家を創ろうとしたアタチュルクのおかげです。トルコの人たちが妙に日本人に対して好意的なのは、こうした事情があるからなのです。
トルコのたびはバスだ
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トルコの旅はバスです。鉄道があまり発達していないトルコでは、ツアー旅行でなくても長距離の旅はバスが主流です。では高速道路が整備されているかと言えば、これもまだまだ。対抗2車線の道路が延々と続く道をひたすら走るわけです。私たち夫婦が日本を発つ日、私たちが訪ねようとしていた中部アナトリア地方のカッパドギアの近くでバスの追突事故があり、日本人女性2名の死亡ニュースが流されていました。かの地を走ってみて、それは当然あり得ることだと実感したわけです。1日の移動距離が700キロを超えるため、時速100キロで走るバスは低速なトラクターなどを追い抜きするわけですが、この追い抜きが素晴らしい。対向車線から車が消えたとたんに、停滞していた車はすかさず左に飛び出し、2車線の道路はあたかも一方通行の体をなすのですが、前からの車が見えたとたん、亀が頭を縮めるように元の右車線に戻るという繰り返しで旅が続くわけです。運転手さん、本当にご苦労さんでした。
トルコは遺跡の宝庫
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バスはイスタンブールからエーゲ海沿いのギリシャ・ローマ時代の遺跡(貴重な遺跡はほとんどイギリスやドイツが持ってかえっているんですね、うーん、帝国主義時代の略奪を見せつけられました)を巡った後、パムッカレ(綿の城)と呼ばれる温泉とローマ遺跡を訪ねました。その地のホテルには普通のプールと温泉プールがあり、ミーハーな私は早速水着で水泳と日光浴を楽しみました。外国映画でよくプールの側でバスタオルを羽織ってビール等を飲むシーンがありますが、透明に透き通った水を見ながらゆったりと時間を過ごす、これぞリゾートと思いながらも、プールに集まる外国人の中でなにか場違いな思いを抱いたのは、私が所詮成り上がりの日本人という自意識を持っていたからでしょう。今度そうした場所に行き時にはもう少しリラックスしようっと。
次の日の行程がハードな700キロ走破です。バスから見える風景は来る日も来る日も畑ばかりなのですが、毎日作物が変わります。ある日はひまわり、ある日は綿花、ある日はオリーブと変わることは変わるのですが、その辺り一面は同じ作物を耕しているのです。トラクターで耕している畑があるかと思えば、今持って牛にスキを引かせている畑もあります。のどかな風景の中に貧しさは見え隠れして、人々の素朴さの中に生活が浮かび上がってきます。9月の初めにイギリス・オランダなども旅したのですが、農村の風景がやっぱり違っていました。ヨーロッパの農村は豊かだなとつくづく感じてしまったのは、トルコの農村風景と較べたからなのでしょうね。
奇岩の洞窟、カッパドキア
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目的地のカッパドキアに到着すると、その地の風景は「あぁ、本当に異国に来たのだな」という思いを強くしてしまう、奇妙でいて懐かしい思いを感じさせてくれました。大地の上にキノコのような奇岩が突出する風景に懐かしい思いを感じてしまうのは、その奇岩の中に洞窟が掘られていて、その洞窟に人々が住んでいたという事実に人間の根元的な懐かしさが感じられたからかもしれません。子供時代によく箱を積み重ねた隠れ家ごっことか、秘密のアジトごっことかに憧れたのは、こうした思いを抱いていたからかもしれません。この地に洞窟を創って生活を始めた人々は、強権から逃れて安住の地を求めた人々で、ローマのカタコンベも同じとはいえ、この地全体の風景は荒涼と安らぎが同居する懐かしい異国を想起させてくれます。火山灰が浸食されてできた駱駝の背のような丘の上で、聾唖の老婆が黙々とレースを紡ぎながら観光客相手に手作りのレース編みを売っている姿は、人間はどんなところでも生きていけるのだと妙に納得させる力強いメッセージを感じさせてくれたものです。
14億の買い物?
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次の日には中部アナトリア最大の産業といえるトルコ絨毯の店に出かけました。ペルシャ絨毯に較べてメジャーとは言えないトルコ絨毯ですが、彼らの自負心は強く、美しく繊細な絨毯はトルコ絨毯であると強調します。ウール、シルクといった素材、染料の種類、織り手の技量などが合わさって絨毯の値段が決まるそうですが、草木染め・シルク・密度の高い絨毯は見るものを魅了します。この地方の若い女性達は絨毯の織り方の上手さで結婚相手が決まるほどに、絨毯は価値観の基準となっているそうです。「私たちは決して絨毯を買って下さいと強要はしません。トルコの文化を知って貰いたいだけです」という彼らの口車に乗せられながら絨毯を見せて貰ったのですが、その美しさに魅了され、とうとう値段を聞いてみました。最高級なものに違いありませんが、3畳程度の絨毯が300万円ほどすると聞き「おいおい、冗談じゃない」と思わず叫んでしまいました。「今トルコの経済は火の車、織り子さんの結婚資金がこれで出るのです」といった泣き落としに参り、とうとう大小3つで100万円の絨毯を購入してしまいました。トルコリラでは14億だそうで(すごいインフレですが)、うーん、ローンの後始末をどうしよう。
続いてヨーロッパだ
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といったわけで、夫婦のでこぼこトルコ旅行から帰国したら、今度はイギリス・オランダの出張です。この旅行は仕事で出かけたわけですから、そんなに一杯遊べるわけないのですが、そこはそれ「お祭り小僧」のこと、仕事の合間を縫いながら結構遊び回ったのです。ただ、仕事で同伴していた人が私よりもずっと年長であるだけでなく、言うなればお偉いさんであることから、かなり緊張した観光を強いられたのですが、だんだん私のペースに持ち込み、一緒に観光を楽しむことができました。イギリスはロンドンだけでなく、ヨークシャーの方まで足を延ばし、イギリスの片田舎、ブロンテ姉妹の博物館にまで足を延ばしてしまいました。彼女たちの小説の主人公である荒涼たるヒースの丘をドライブして、その夏の美しさを堪能し、冬の荒涼さに思いを馳せてきました。煉瓦や石造りの田舎の美しい家屋はトルコの家々に較べ、本当に豊かさを感じさせます。ちょうど私たちがヨークシャーのある家庭に泊めていただいた日曜日の朝、ダイアナ妃の自動車事故のニュースを知りました。その朝には新聞は間に合わず、テレビとラジオからのニュースだったのですが、その家庭にはテレビがありません。片言の英語でそのニュースを知ったわけですが、自分の英語力のなさを痛感してしまいました。
オランダはすてきな国
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イギリスを訪ねた後、オランダのデルフトという学園都市を訪ねました。ロッテルダムとハーグに挟まれた小さな街なのですが、中世の街角を残し、学生がたくさんいる街なので、京都の左京区だけのような街とも言えるでしょう。この街はそのたたずまいが枯れていてしかも若い人たちの息吹が感じられるところで、私はすっかり気に入ってしまいました。しかも物価がきわめて安いのです。街角のテラスでビールを1杯飲んでも150円程度なのです。ホテル代にしても8000円とそのリーズナブルさに感動してしまいました。来年、女房とデュッセルドルフとデルフトを訪ねる旅を考えてしまいました。
スリにやられた!!
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オランダでの拠点はデルフトでしたが、アムステルダムにも当然行って来ました。そこでとうとう大きなチョンボをしてしまいました。スリにやられたのです。アムステルダムの街でゴッホ美術館に向かい、昼食を食べた後です。その日には、荷物を少なくしようとして、リブレットの手提げ鞄からパソコン関係のものを全て取り出し、カメラとフィルム、案内書などを入れて出かけました。ゴッホ美術館で写真集を購入したとき、手提げにビニール袋に入れてくれました。昼食後、荷物をまとめるために、リブレット袋をそのビニール袋に入れて電車に飛び乗りました。ダム広場という大きな広場で降りようとしたところ、出口が詰まりなかなか出られません。そのうち、ドアが閉まったので、あわててオープン釦を体をねじって押し続けました。一緒に観光していた2人が先に降り、わたしもやっと飛び出ることができましたが、降りたところですぐ写真を撮ろうとカメラを取り出そうとすると、カメラがありません。まだ電車が出発していなかったので、すぐに電車の外に付いているオープン釦を押したところ、中にはいることができましたが、先ほどまでの混雑はなくなっていて、落とし物もありません。電車が出発してはまずいとまた慌てて飛び出し、手提げのビニール袋をもう一度見ると、切られた後があるではないですか。「あっ、やられた」と悟ったわけです。同乗していた2人は、他の乗客に体を押しつけられてきたので身構えたとか、肩掛け鞄のチャックが半分開けられていたとか言ったので、「やっぱり」と妙に納得してしまいました。何回も海外旅行は経験しましたが、スリにやられたのは初めてでした。カメラはそんなに残念とは思わなかったのですが、撮っていたフィルムが残念。その後、気を取り直して観光していたのですが、観光案内に「のみの市」が出ていました。「こんな時には、警察よりはのみの市」と言って、電車でのみの市に出かけました。そこは香港の女人街のような雑然とした屋台が続いていて、その中には盗品のようなカメラやバックを扱っている露天が何軒も見あたります。おお、あるある、財布や鞄やカメラといった小物が雑多に並べられています。その中のひとつに私のカメラもあるではないですか。「それは私がスリにやられたカメラだ」と叫んだところでどうしようもありません。いろいろ交渉して、やっと8000円で買い戻しました。でも、フィルムは戻ってきませんでした。てなうまい話にはいきませんでしたが、こののみの市のジョークは大変に受けました。後で妹尾さんの家族に話したところ、すっかり信じ込んでしまい、ジョークだと返すタイミングを掴むのに困ってしまいました。飾り窓にしろ、こうした市にしろ、アムステルダムの猥雑さは面白いですよ。
おいおい互換機切り捨ては命取りだぞ
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最後に少しだけパソコン関係のお話。先月号ではジョブスがアップルに仕掛けた逆転打でアップルに少し光明が見えたような話を書きましたが、どうもなかなか問題が大きいみたいですね。ジョブスはビル・ゲイツとの握手を成功させたわけですが、彼は互換機路線を嫌っていました。その彼がトップになった以上、互換機の縮小が懸念されたわけですが、とうとうモトローラが逃げ出してしまいました。こうなったらIBMにしてもどうなるか。IBMからサブライセンスを貰っているアキアだってどうなることやら。98にしろ、マッキントッシュにしろ、何が問題だったのかがジョブスには総括できていなかったのだろうか。そこが分からない。でもね、NECだってとうとうNEC98からデフェクトスタンダードのPC98(紛らわしくて、しかもNECの転身をごまかせるマイクロソフトの新しいパソコン基準)に乗り換えるそうじゃないの。ジョブスさん、早く考え直さないと墓穴を掘るよ。
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