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2000年12月号
連載164

21世紀を目の前にして
ここはちょっと四方山話

この20年近くパソコンで遊んだものの
この時代変換の速さはとてもじゃない


 すっかり冷え込んでくる季節となりましたが、もう12月なんですよね。私が幼かった頃には11月といえば木枯らしが吹き、鼻水を垂らしながら遊んだ記憶があるのですが、今では季節が一月ほどずれ込んだような気がします。とはいえ、もう12月です。思えば昨年の今頃は2YK問題で大騒ぎをしていたわけですが、喉元過ぎ去ってみれば数千光年も昔のことのように思えるのが不思議です。とうとう後一月ほどで21世紀を迎えるわけですが、昨年の騒ぎで疲れ果てたのか、どうも今ひとつピンとこないわけです。もっとも今回のシドニーオリンピックではありませんが、年の瀬も押し迫った1週間ほどで急に盛り上がるのかもしれません。とにもかくも、20世紀も後一月。心して暮らしていきましょう。

パソコンの可能性に微熱的興奮を覚えた頃


 さて、こんな時代にもかかわらず、最近のパソコン界にはこれといった面白いネタがないんですよね。仕方がないので、20世紀の締めとしてパソコン界のこの20年を振り返ってみるのも面白いかと思い、四方山話でもしてみましょうか。
 私が始めてパソコンに興味を覚えたのは1982年、最初の PC-9801 が発売された年でした。1979 年にPC-8001が発売されていたわけでしたが、まだこの当時にはパソコンの「パ」の字も知らないばかりか、パソコンは当時「マイコン」と呼ばれることの方が多い時代でもありました。工事現場において計測・制御にパソコンを利用しようと言う動きが生まれてきた当時、新しもの好きの私はそれが個人でも購入できる20万円までのものと知り、俄然個人的に所有してしまいたくなったのです。だいたい性格的には飽きっぽい性分な訳ですが、どういう訳かパソコンに関してはかなり長い間付き合ってきたものだと感心しているわけです。最初に購入したパソコンはPC-6001、購入して2ヶ月後にはPC-8801と、私とパソコンの歴史は始まるわけですが、本当に長いつきあいとなってしまいました。
 では、どうしてこんなに長い趣味になってしまったかと考えてみれば、不思議な思いに捕らわれてしまいます。当時、パソコンに興味を抱くのは理科系の人間だけで、文化系の人間にはあんなもはチンプンカンプンだ、あるいは理解できるわけないと言われていたわけです。また、35歳以上の人間はついていけないなど、今から考えてみると相当な迷信がまかり通っていました。まあもっとも、当時のパソコン環境というのは閉鎖社会そのものというか、分かるものだけが使えばいいといった感じでしたから、仕方ない思いこみでもあったわけです。パソコン=BASICといったイメージが先行していたため、BASIC言語をマスターしなければパソコンは使えないといった思いこみや巷の風評がパソコン世界を囲い込んでいたのでしょうね。私と言えば、法学部に入学したものの就職は土木現場に入り込んだという奇妙な経歴のため、そんな思いこみとは程遠い位置にいて、パソコンが作る可能性に対して興味津々といったところだったのです。当時、パソコンを巡る雑誌や単行本の数は限られていたわけですから、その周辺の話はなかなか入手できませんでしたが、「この世界はどうも急激な変化が起こり続けるのじゃないか、産業革命以降一段落着いた産業の新しいメルクマールになるのじゃないか」といった感覚を持ち始めたわけです。もっともそんなに明確な言葉で語れるようなものではなかったのですが、「こんなに面白いおもちゃはない」とのめり込んでいったものでした。だって、100年の産業の盛衰がたった数年間で見えるわけですから、ビジネスに携わっている人間にとっては産業歴史のミニチュアを見ているようで、とても興味深かったことも確かです。私にとってパソコンとは、パソコンそのものに興味があったと同時に、それを取り巻く世界そのものにも非常に興味を覚えたわけです。微熱的興奮時代といったところでしょうか。

コピープロテクトを巡って


 パソコンで遊ぶうちに多くの友人達を得ることができました。15年にも亘って付き合ってきたPC通信の友人達もそうですが、仕事先で知り合った人たちでパソコンという共通の話題で多くの友人達も得ました。そんな友人達との最初の出会いはソフトコピーでした。15年前のパソコン界最大の話題は、「コピープロテクト」でした。外部記憶装置の主流がカセットテープであった時代からフロッピーディスクに代わり、手軽に大量(といって当時の大量ですからしれたものです)のデータがコピーできるだけではなく、ソフトウェアまでコピーできることになったわけですから、新興の産業であったソフトウェア業界にとって見れば「違法コピー」というのは深刻な問題であったのかもしれません。でも、当時のソフトウェア会社というのもアマチュアに毛が生えたものであったし(こんな事を言うと顰蹙を買うかもしれませんが、当時のソフトウェア会社というのは素人が力任せに作ったソフトを売っていただけです。そこから生き残った会社も数々ありますが、そうした会社は違法コピーに敗北していません)、ハードウェアの購入でアップアップしていたパソコンユーザーにとって、ひとつひとつのソフトウェアの金額はあまりにも高すぎました。当時のパソコンユーザーはパソコンを本当に何らかの生産性のあるものに使おうと言うよりも、とにかくパソコンの可能性というものを試してみただけのことだったように思います。他人が今度のソフトウェアが凄いと言えば自分のパソコンでも動かしてみたい、でも購入してまで試してみる価値があるのか、そんな面白半分の気分だったのではないでしょうか。ところがこのコピープロテクトを巡っての熱い戦いが次時代のパソコン世界の裾野を固めたのだと、私は思っています。今は懐かしい「THE BASIC」はそのプロテクト解析講座で一躍人気を集めたものでした。コピープロテクトを巡って、プロテクト解析のためにプログラム言語を勉強した人たちはその後フリーソフトの開発を行ったり、コピーソフトを利用することでパソコンを使い始めた人たちもパソコン普及の一役を買ったことは確かでしょう。パソコン世界はまだまだほんの小さな世界だったわけです。

パソコン通信からインターネットへ


 私がパソコン通信を始めたのもそんな時代でした。電信電話公社の電話回線を通話以外の用途に用いてもよいという規制緩和を受けてパソコン通信が始まったわけですが、個人の家にあるパソコンとホストパソコンを電話によって繋ぐと文字が出てくる、ただこれだけで感動したものでした。当時の通信速度といえば300bpsというものでしたから、ガーガーピーピーというモデム音と共にディスプレィに視認速度で文字が流れ出てくる、今から考えると非常に遅い通信速度でしたが、電話線が通話だけではなくコンピュータデータを転送すると言うことを発見した新鮮な驚きがありました。通信速度はその後倍々の速度で向上していきました。300から600、600から1200、1200から2400。その速度は今から思えば非常に遅いものでしたが、ディスプレィ上の目に見える形で速度が向上するものですから驚いたものでした。つまり視認速度で読めていた文字が目にも留まらない速さでディスプレィに流れ出してくるわけですから、通信速度というのが実感できたわけですね。まあもっとも最近のインターネットの通信速度も画像という大きなデータがどの位のスピードでディスプレィに表示されるかということで通信速度を実感しているわけですから、同じといえば同じなのでしょうが、当時の感覚はとても新鮮なものでした。現在でもよく利用しているファイル圧縮技術はこの時代に生まれたものですが、ハードや環境の進化・需要に対してそれに見合うソフトが生まれてくることに驚きと共に感動を覚えたことも確かでした。10年近くパソコン通信の世界でやり取りをしていたため、インターネットの話を聞いた時、その違いについて気が付かなかったことを思い出します。パソコンと通信というものが切り離せないことについては十分承知していたくせに、通信のあり方の変化に疎くなっていたわけです。アメリカの友人の家に行って、日本の大学のホームページにアクセスして見せてくれた時、一瞬にしてその違いに気が付いたわけですが、本当に事実は百聞にしかずとはよく言ったものです。帰国するとすぐさまプロバイダを見つけようと探し回ったことが思い出されます。

新しい技術が見え始めるとき


 同じような技術の中に秘められている新しいものを見つけだすと言うことは簡単でいて難しいものです。ちょうどMPEG技術が生まれ出て、私の家のPentiumマシンでビデオCDを映したとき、女房がやってきたのです。彼女に「凄いだろう、コンピュータで動画まで処理することができるようになったのだから」と言うと、彼女は「どこがビデオと違うの?同じじゃないの」と応えるだけです。アナログで記録されているビデオとデジタルで処理をされているMPEG圧縮の違いをいくら説明しても、彼女にとっては映っている画面の違い以上は関係ないことだったのです。結局、技術の進歩なんてものは結果として何らかの実用性を与えられるまでは単なる遊びでしかないのかもしれませんね。

成功体験が人を頑迷にする


 こうした勘違いといえば、昔よく論争したことが思い出されます。ひとつの時代が次の時代に移ろうとするとき、昔の時代にすごく精通している人ほど次の時代を認めようとしないという事実は今もって実感していますが、パソコン世界でそのことをよく勉強させて貰いました。この話は昔よくPC通信にも書きましたが、ひとつの時代にじっくりと腰を落ち着けてしまった人たちにとって見れば新しい技術が普及すると言うことは我慢ならないことなのかもしれません。私にとってみても、常に昔の成功体験が全てではないと思いつつ、できるならこのままで飯の種は続いて欲しいと願っているわけですから、他人のことにまで口出すわけにはいきません。しかし、この間の日本的不況というか、リストラ社会というのはまさに昔の成功体験を根こそぎ覆してきているものです。もっとも会社の下部にいる人たちにとって見ればそれは成功体験とは考えていないかもしれませんが、その会社で日常的に続けていたことで飯が食えていたとすればやはりある種の成功体験であったわけです。8ビットから16ビット時代、DOSからWindows時代、98からDOS/V時代、パソコン世界の流れにしても大きな意味では連続性が保たれているわけでしょうが、その連続性というのが断続に次ぐ断続によって作られているものと、ゆったりとした流れの中で繋がっていくものがあります。今の時代というのは、目まぐるしいばかりの技術変換の中で作られているものですから困ってしまうわけです。ある種のスタイルというものが確立しているように見える服装の世界なんていうものに、新しい技術がどんな風に生まれているのか私は知りませんが、しかし確実に「流行」という名の流れがあり、これによって選別され続けているわけです。パソコン世界の技術革新はあまりに速すぎて、ひとつひとつのものを噛みしめることなく消費され続けているといった感じですが、これはこれでとても勉強になっています。昔、私の親父が「自分の時代というのは10年くらいのスタンスで物事を見ようと考えていたのだが、今の時代はとてもそんな悠長なことは言っていられないな」と呟いたことを思い出します。

IT革命って言ったところで


 最近、政府はIT革命がどったらこったらとしきりに騒いでいます。パソコンやインターネットを使えなかったら時代に取り残されるぞと言ったキャンペーンなのでしょうか?日本の通信環境がアジア社会の中でも後進的な位置にいることは私にも分かっていますが、それはあくまでも通信環境の問題であって、パソコン講習無料券を配ろうなどと言った問題ではないのです。ネットに接続する接続料が高いという通信環境をどうにかする方が先であって、そこから先まで政府が口出しすべきではないのです。iモードは政府が薦めたから普及したのではなくて、そのコンセプトが普及を促したのです。その接続料がもっと安くなればますます普及してしまうことでしょう。日本のインターネット後進性は、国策によって守られていた電信世界がまだ頑固に生き残っていると言うことなのです。先月書いたxDSLの話はまさにそれです。自分たちが思い描いていたところとは違った世界に進み出した通信環境に対して、その設備投資をどうしても取り返さなくてはならないジレンマに陥ったNTTに、適切な指導ができなかったところにあるのですよ。これこそが次世代を支える技術と信じて進んできたことが、ある時新技術の誕生によってご破算になってしまうというのは、今の時代ではしばしばあることなのかもしれません。本当に難しい時代になってきました。
 プロバイダにしてもそうです。初期の頃に始めて現在も生き残っているプロバイダというのは数が少なくなっています。ソフト会社にしてもそうです。常に革新していくことでしか連続性を保てなくなった時代。それが21世紀の始まりなのでしょうが、本当に大変です。とにかくいつまでも頭を柔軟にしておく必要がありそうですね。



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