OMATSURIKOZO's talk salon

ランダムアクセス
2002年4月号
連載180

今月は180回 満15年
少し感傷に浸ってみました。


連続と非連続
この連続 よく続いたものです。

 今年は早く春を迎えましたね。我が家の庭では昨年取り出したチューリップの球根を植えていたところ、3月の中頃には花が開いてきました。やはり栄養不足だったのか、花はとても小さいのですが可憐に咲いたチューリップはいち早く春を感じさせてくれました。畑でも雑草が勢いよく緑を増してきました。今年も毎週の草取りの季節が来たなと思っているところです。会社の近くの川土手を覗いていたらつくしんぼがたくさん生えていました。緑があると春の訪れを実感するのだなと感慨深いものがあります。皆さんも春を見つけましたか。花見もすぐそこでしょう。

丸15年です


 さて、今月はこの「ランダム・アクセス」第180回、つまり15周年という事です。「PC通信」自体も来年には20周年を迎えるわけです。パソコン世界の流れはとても激しく、15年前とか20年前というともはや化石時代のように思われてしまいますね。これだけ長く続いているパソコン関係の雑誌なんて商業誌でも多くはありませんよ。もっとも商業誌ではないから続いているのかも知れませんがね。とにかくここまで続いたことに思いを巡らし、今月は少し感傷にふけってみることにします。

時代考証から


 無精な私は日記を付ける習慣がないためか、その時々の記憶はあるものの、それが何年のことだったかという記憶がまったく曖昧なのです。そこでインターネットでパソコンの歴史を書いているのがないかと調べてみると、いくつかのサイトが見つかりました。宮原さんという人のサイトhttp://www.sol.dti.ne.jp/~osg/history/history.htmlにパソコンの歴史をざっと書いてあるの見つけました。主要機種の年表を見ると、20年前の1982年は初代NEC9801が発売され、「8bit市場は、PC88/FM7/X1三巴の戦いに」というコメントがありました。そういえばその年に私はPC6001を買ったんだなぁと感慨深いものがよみがえってきました。すぐ次の年にはPC88を買い込んだものの、まだまだパソコンはマイナーな存在で情報も限られたものでした。「ざ・べ」という愛称で数年後にはどんどん部数を増やしていった「THE BASIC」に、入会案内があった「PC通信」の会員に申し込んだのはそんな時期だったと思います。当時の「PC通信」は数ページのコピー版でしたが、とても楽しいものでした。大森編集長にちょくちょく清書を頼まれたりするうちにソフト批評みたいなものの依頼を受け、「PC通信」に記事を書き出したのはその後でした。そのうちにどうせ毎月書くのなら自分のページを呉れないかと頼んで始めたのが「ランダム・アクセス」だったのですが、とうとう1回も休むことなく丸15年が経過したわけですよ。過ぎ去ってみれば我ながらよくも続けたものだと感心しているところです。

 私が連載を始めた年である1986年当時は、9801VMの全盛時代です。当時を振り返ってみると、

1983 MSX(各社) IBM-PC/XT(IBM) ファミリーコンピュータ (任天堂、ゲーム) MSX、年末商戦でファミコンに惨敗。

1984 FM-new7/77/11BS(F) FM-16β(F) MACINTOSH(APPLE) 一太郎 坂村助教授、TRON構想発表。

1985 PC-8801MKUSR(N) PC-9801VM(N) IBM-PC/AT(IBM) FM-77AV(F) X1turb スーパーマリオブラザーズ(任天堂、ソフト)

1986 PC-9801VX(N) J-3100(T) ドラゴンクエスト (エニックス、ソフト)

1987 PC-286(EP) X68000(SP) PS/2(IBM) FMR(F)、PANACOM-M(P) PCエンジン

(NEC-HE、ゲーム) エプソン、PC98互換機発売。 MicroSoft、AX規格提唱。

松下、FMR互換でNEC包囲網。

といった出来事があります。
 パソコン世界は狭い世界でありながら、その中で将来の覇権を巡って熱い戦いをしていたわけです。だって当時のパソコン出荷台数は年間50万台にも至ってないのですよ。現在のパソコン出荷台数は1500万台に近いわけですから、その世界の狭さは「パソコンをする人ってネクラ、オタク」なんて悪口が陰口でなく一般的に言われていたのですから、推して知るべしです。

「漢字」表示とパソコン


 当時の日本パソコン世界は「漢字」という特殊事情を持っていたため日本独自のパソコンの必要性があり、アメリカを中心としたパソコン世界とは切り離された存在として発達しました。この「漢字表示」という大きな命題は単純にパソコンが世界と切り離されていたと言うだけでなく、日本では「ワープロ」という特殊なパソコンを生み、それが大きな市場を形成してきたことにも関係していました。今のWindows時代では想像もつかないことでしょうが、「漢字」をディスプレィやプリンタに表示しなくてはならないと言うことは、当時のパソコンの貧弱な能力ではとても単変なことだったのです。漢字ロムという特殊なメモリを付けない限りは漢字表示が出来ないというパソコンは、まったく金食い虫の道楽おもちゃといった雰囲気がありましたが、それでも「漢字」をディスプレィに表現しなくてはならない日本のパソコンは、当時の世界のパソコンの中でダントツの表示能力を有していました。その表示能力は当然ゲームにも利用されたため、当時の日本のパソコンで遊べたゲームのグラフィックは最高級のものでした。「漢字」表現というマイナスの要素が当時の日本パソコンの原動力だったのかも知れません。

98独走時代


 話は舞い戻りますが、私がパソコンに嵌りだした当時というのはNEC、富士通、シャープの3強のパソコン8bit黎明期からNECの独走が始まった時代だったわけです。8001、8801、9801への移行をうまく連続性の中に成し遂げたNECに対して富士通、シャープが取り残され、家電メーカーが連合してNECを引きずり落とそうとした時代でもありました。Microsoftが主導したMSX、教育界を巻き込んだTRON構想、再びのMicrosoftのAX規格。全ての企てが9801の前に挫折し、エプソンは9801互換機に走ることになった時代、それが「ランダム・アクセス」の連載が始まった頃でした。こうして思い返してみると様々な思いがこみ上げてきます。毎月ネタに困ることがなかったような気がします。当時の9801は、初期のBASICマシンからMSDOSマシンへと変貌を遂げ、新しいソフトはほとんど全て9801用に開発されていましたから、まさにパソコン=9801といった状況で、98は国民機とまで言われ、この独走は未来永劫に続くかとも思われた時代でもあったわけです。ゲーム機世界でも任天堂が一人勝ちし、様々な規格が挑戦しては破れると言った時代でしたから、10年後には新しい規格であるATコンパチ+WindowsやソニーPSが覇権を取るなんて想像もつかない時代だったわけです。

ノートパソコン登場


 ハードウェアとして大きな転換期を迎えるのは、エプソンが発表した98コンパチのラップトップからです。まだまだ液晶の価格が高かった時代ですが、コンパチマシンから先にラップトップが登場しました。製品開発能力の高かったNECはすぐさま同等の製品を発表するわけですが、他社が出さないと自社からは開発しないと言う保守的な開発姿勢が少しずつNECを蝕んでいったのでしょう。東芝から発表された「ダイナブック」というノートパソコンは衝撃的でした。98コンパチでもないのに、98ラインナップにないノートパソコンという新しいコンセプトは圧倒的に市場に認知され、この時にもNECは慌てて対抗商品を出してきました。現在ではパソコン市場の半分以上を占めるノートパソコンという概念を東芝は生み出したのですが、結局当時の98時代ではあだ花的存在になってしまいました。新しもの好きな私は当然すぐさまダイナブックを購入し、しばらくの間サブマシンとしてこれを使いましたが、「データの互換性さえあれば別に98でなくてもいいのじゃない」という意識を持ち始めたのは確かでした。こうしたハードウェアの進化が古い規格を変えていったのでしょうね。

パソコン通信がパソコンを支えた


 私が「PC通信」に入会した当時、パソコン通信が始まりました。電話機に接続したホストパソコンに、多数のパソコンから電話・モデムを通じてアクセスするパソコン通信は、「掲示板」と「メール」を持っていて、スタンドアロンで使っていたパソコンが他のパソコンと繋がる面白さを味合わせてくれました。通信環境も現在とは大違いです。20年前には電話線は「通話」以外の用途では使えなかったのです。データ通信という概念はずっと昔からあったのでしょうが、それが許可されたのがその当時だったわけです。あれから電電公社はNTTという民間企業に変わり、すっかり通信事情は変わってきましたが、当時のパソコン通信は革命的な出来事だったわけです。パソコン通信に嵌って電話料金が10万円を超えたという人たちも多くいました。現在のインターネットほど普及したわけでもないし、文字データだけのやりとりでしたが、パソコンの持つ可能性・面白さを体験させてくれるものでした。300bpsのモデムで繋いだパソコン通信では、ディスプレィに現れる文字がまるでちょっとタイピングの早い人の速度で現れると言った状態でしたから、何とも牧歌的ではありました。インターネットが話題に上り始めた頃、といってもまだ日本で民間のプロバイダがやっと生まれたばかりの頃、私にはインターネットというのが画像データまで送れるパソコン通信の一種だという認識しか持てなかったのは、パソコン通信がそれほど私に密着していたからでしょうね。このパソコン通信を通じて多くの友人を持つことも出来ましたし、新しい環境を手に入れることも出来るようになりました。シェアウェアというジャンルのソフトが登場したのもパソコン通信です。パソコン雑誌に載っていた活字ソフトをシコシコと打ち込んでいた時代から、通信でダウンロードしさえすればソフトが走るというのは感動的でもありましたね。雑誌に発表された活字ソフトを一日以上かけて打ち込んでもなかなか走らない、1文字打ち間違えただけでソフトが走らないパソコンというものに苛立たしい経験をした人たちにとって、パソコン通信で発表されるシェアソフトというのはとても有り難かったわけですし、こうした世界の登場がパソコンの裾野を大きく広げていく役割も果たしていました。「データの互換性さえ取れればいいじゃない」という感覚なども、パソコン通信から生まれてきたのかも知れません。

プリンタも様変わり


 パソコンを構成するものとして、すぐ見えるものにパソコン本体・ディスプレィの他にプリンタがあります。プリンタもまったく当時とは様変わりしてしまいました。漢字ロムを搭載した24ドットインパクトプリンタは当時20万円はしました。もっとも上記一式を16bitパソコンでまともに揃えると100万円近いものとなる時代でしたから、仕方なかったのかも知れません。複写式の伝票等には必要なインパクトプリンタは現在でも使われているようですが、今ではほとんど見かけなくなってしまいましたね。当時パソコンでワープロをしたいと思ったら、ワープロソフトとともにこのプリンタが必要だったわけです。本当にパソコンは金食い虫でした。パソコンが普及したオフィスではペーパーレスになるなんて言われたものでしたが、やっぱり人間の長い習慣は変わらないようで、大量の印刷が行われています。どうも、紙に書かれた文字の認識スピードはディスプレイに現れる文字の認識スピードより速いのかも知れません。
 プリンタの方式にも大きな変化がありました。初期のドットインパクト方式に続いて、熱転写・インクリボン方式、レーザープリンタ、インクジェットプリンタと生まれてきました。解像度に限界があったドットインパクトと熱転写方式は、Windows時代とともに消えていってしまいました。換わって市場を取ってしまったのはインクジェットプリンタです。インクジェットプリンタが登場したとき、この方式を少し押し進めればカラープリンタが廉価で登場してくるだろうと推察しましたが、写真に匹敵するように印刷能力があるプリンタがこんなにも廉価に発売されてくるとは思いもよりませんでした。
 こうして思い起こしてくるとこの15年、あるいは20年というのがあっという間のように思われますが、連続と不連続が重なり合うように時代が流れたのだなと感じられます。98−DOS/V−Windows、デスクトップ−ノートパソコン、パソコン通信−インターネット、文字−画像−動画、ドットインパクト−レーザープリンタ−インクジェットプリンタ、テープ−FDD−HDD、CD−MO−DVD、ディスプレィ−液晶、メーカープロダクト−自作、我が家にはこれらの残骸がまだ残っています。今月は少し感傷に浸ってみました。

振り返ってみれば


 こうして思い起こしてくるとこの15年、あるいは20年というのがあっという間のように思われますが、連続と不連続が重なり合うように時代が流れたのだなと感じられます。98−DOS/V−Windows、デスクトップ−ノートパソコン、パソコン通信−インターネット、文字−画像−動画、ドットインパクト−レーザープリンタ−インクジェットプリンタ、テープ−FDD−HDD、CD−MO−DVD、ディスプレィ−液晶、メーカープロダクト−自作、我が家にはこれらの残骸がまだ残っています。今月は少し感傷に浸ってみました。


returnreturn

ご覧いただき誠にありがとうございました

All Rights Reserved (C) Copyright 1995-2002, ClubOH, PC-CLUB.