OMATSURIKOZO's talk salon


ランダムアクセス 2004年12月号
連載212回

ネットと犯罪
虚構性の中に生まれる重大犯罪

著作権法をめぐる裁判・論争に見る
時代錯誤と硬直性
 


お祭り小僧のランダム・アクセス

 やっと秋の帳が降りてきたと思ったら、「PC通信」はもう12月なのですね。私が子供の頃は、11月の終わりにはもはや冬の気配を充分に漂わしていたものですが、確かに地球の温暖化は進んできているようですね。寒い季節が嫌いな私にとっては嬉しいのですが、地球全体のことを考えるなら手放しでは喜べないようです。夏から秋を飛び越して冬がやってくるのでしょうか。先月号で自然災害のことに触れましたが、中越地方の大震災は驚いてしまいました。台風23号の余韻が収まらない内に突如として起きた大地震でしたが、余震の強さと期間の長さに被災地のみなさんは大変だと思います。本当にいつ何が起こるか分かりません。自衛しようたって、出来る範囲を超えた自然災害にはとにかく命だけでも守るようにしなくてはと、つくづく感じたものです。

少女誘拐殺人事件

奈良市では小学1年の女の子が誘拐、殺害された事件が起こりました。犯人は、どうやら車で少女を誘拐し、その日の内に殺害しただけではなく、少女に持たされていた携帯電話から母親に、殺害後とみられる少女の写真を送ってきたといいます。とても悲惨で悲しい事件ですが、営利目的とは考えられない異様な誘拐殺人に「日本人も白人たちと同じ残虐性を持ち始めたのか(FBIの連続殺人のファイリングではこうした事件の犯人は全て白人であるという)」という思いと、こうした犯罪と携帯電話やインターネットなどのIT世界との奇妙な関係性に「なるほど」と思う気持ちと「怒り」とが同時に溢れてきました。社会が食べることで精一杯の時代においては、犯罪の動機は単純で「利害」「怨恨」といった社会の軋轢を映し出したものでしたが、現代はどうも犯罪の動機にリアリティが欠けた分だけ事件は冷酷で残虐なものや軽薄なものに変化してきているように感じられます。

インターネットに潜む悪意

 今月はネットと犯罪について少し私が考えたことを書いてみましょう。

 奈良の女児誘拐殺人と関連してですが、「2ちゃんねる」にこの事件前に類似手口の書き込みがあったそうです。匿名で書かれていたので事件との関連は不明と言うことですが、書き込みは8月末ごろから始まり、警察に捕まらずに子どもにいたずらする手口を同一のハンドルネームを名乗って紹介し、その中には「カメラ付き携帯電話で(被害者を)撮影して口止めする」「衛星利用測位システム(GPS)付きランドセルに注意する」といった内容が有ったそうです。11月2日には「近日中に決行する」、事件があった17日の午後5時半ごろには「翌週月曜か水曜に決行します」と犯行を予告するような内容もあったそうですが、このような変態的な書き込みがネット上で溢れていることは確かです。この書き込みを行った人間がこの犯罪を行ったとは私には思えないのですが、「子供にいたずらをする」と言うテーマで書き込む神経は、犯人と同根のものです。営利目的の誘拐事件ではしばしばプリペードタイプの携帯電話が用いられ、その匿名性が問題となっています。今回の事件では、GPS組み込みの少女の携帯電話を大胆不敵にも用い、親に写真を送るという冷酷な手法は、最近のIT機器への知識を充分に持っていると言うことでしょう。

 営利を目的とした誘拐も当然許せないことですが、今回のような猟奇的な事件が起こると言うことは日本社会の社会構図が変化してきていることの現れで、大人になりきれないモラトリアム世代の人間が社会の中に氾濫してきている、頭でっかちで自己評価と他者評価に齟齬を感じ、自己顕示欲のために弱いものをいたぶっているとしか思えないのです。つまり、このような犯罪者はリアリティある動機に基づくものと言うよりも、アンリアルな空想的動機を現実世界に持ち込もうとしているように見えるのです。生活に根付いた生き方を求めない者たちが、徐々に社会を浸食し始め、その温床としてネットがあるという構造を否定することは出来ないように思うのです。

仮想性の楽天的悪意

 「東京タワー爆破予告事件」もまた同様でしょう。国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディン容疑者を名乗り、「東京タワーを爆破する」とインターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込んだとして、警視庁は11月20日、鳥取県倉吉市に住む国立大学1年生の男(19)を威力業務妨害容疑で逮捕した。自宅に爆発物はなかったという。愛宕署の調べでは、男は9月9日午前5時ごろ、掲示板に「9月11日に東京タワーや霞が関、秋葉原など都内の多くの場所を巨大な爆弾で爆破する」という内容の英文を書き込んだもので、同タワー経営会社・日本電波塔(東京都港区)に警備員を増員させるなどして正常な業務を妨害した疑い。

 私は彼がオサマ・ビンラディンの確信的な支持者であったと言うよりは、ネット社会が生み出した軽い気分のノリで書き込んだものと推測します。自分が行う行為が社会的にどのような影響を与えるかについての明確な意識も持たないまま、「面白そう」という思いつきをそのまま実行したと思います。「書き込み」は匿名社会(ネット)の架空話であって、実社会とは関係ないと考えていたのかもしれません。反体制運動が華やかであっ時代においても、このようなノリがなかったとは言いませんが、少なくとも自分の行為とその社会性についての意識はあったと思います。

仮想新興宗教集団の集団自殺

 自殺サイトに集まり、集団自殺している人たちも「生活者」としての苦しみに苦悩したあげくと言うよりは、自分たちで作り上げたちいさな仮想新興宗教の殉教者のように私には思えるのです。たしかにバブル崩壊からこのかた、生活苦のために中高年の男子の自殺が増えたとか、自殺者は3万人を超え、世界でも有数の自殺国となっているとききます。しかし、サイトに集まって集団自殺した人たちはまだ若い人ばかりで、生活苦で追いつめられて自殺したとは考えられません。確かに自殺するというのは精神的に追いつめられた結果でしょうが、どこかに甘えを感じてしまいます。「インターネットで集団自殺」というヘッドラインに対して、ネット社会の中でも反発があり、「インターネット=自殺なんて決めつけるな!!」というコメントも出ています。ネット人口1000万人に対して自殺者は数10人ですから、反発する人たちの言い分も分かるわけですが、ネット社会が醸し出している虚構性は自殺志願者の最後の背中押しを助長している可能性は高いです。

ネットを利用した犯罪

 ネット犯罪としてはもっと確信犯的な犯罪も生まれてきています。「オレオレ詐欺」のネット版というか、銀行や信販会社からのメールを装い「口座番号」「パスワード」などを聞き出し、カードや口座から金を引き出すという犯罪等がそれです。ネットを利用しての詐欺犯罪はこれからもますます手の込んだものとなってくるでしょうが、このような犯罪はネット社会特有のものと言うよりは、現実世界の詐欺犯罪がネット社会に入り込んできたと言うだけのことでしょう。私が危惧しているのは、ネット社会特有の匿名性・虚構性の中で現実世界との境界が曖昧になる人たちが引き起こす犯罪です。たった10年にも満たない時間の中であっという間に世界中をそれこそ網のように覆ってしまったインターネットは、私たちの価値観や世界観を大きく変化させてしまい、私たちはそれを充分に消化しないままに土石流に乗るように流されているのです。学校教育の中でもインターネットが取り上げられ、少しずつ教育が行われているようですが、「子供たちは自分たちより頭が柔らかいから、あっという間にパソコンに馴染んでしまう」と感心げにいう大人たちをあざけるように、彼らは私たちの知らない社会を漂流し始めているのです。インターネットのルールづくりとは、社会性を持った大人たちがその可能性と危険性を認識しながら、その奔流の中を一緒に泳ぐ努力をしてやらなくてはならないのかもしれません。

Winny裁判の論点

 Winny裁判で、検察側は「Winnyの技術的側面については感知しない。被告人は中立的なファイル共有ソフトの開発を目指してウィニーを製作、配布していたものではなく、もっぱら著作権法違反行為を企図していたものであり、いわば確信犯的に行っていた」と主張し、弁護側は2ちゃんねるの「47氏発言」や金子被告の著作権に対する考え方などについてはいっさい触れず、ひたすら「ソフト開発を罰する行為は是か非か」という論点に絞って反論を展開した。当然論点は噛み合うわけでもなく、ある論評のなかでは「裁判の勝敗ではなく、作者の開発意図を大衆的にアピールしなくてこの裁判の意義があるのか」という疑問もでてきている。検察側はは2ちゃんねるの「47氏発言」と金子被告を同一人物と規定した上で論理を展開している以上、この両者の同一性を証明する必要があるわけだが、これはなかなか難しい、そこで弁護側はこの盲点をついて「ソフト開発の合法性」を主張しているわけです。確かに「47氏発言」のとおり、現在の著作権法の不都合性を展開することは有意義かもしれないが、これを覆すことを現法律下で主張しても裁判には勝てないのは当然だろう。革命家が旧体制下で論理を展開したも旧体制下では「国家反逆罪」でしかない。革命が成就してしまえば革命家が正義で旧体制の権力者が不正義となると言うことは自明のことである。法律というものは、時代権力側の権益擁護のものである以上、新たらしい概念を素直には受け入れがたいものです。私としては、当面の弁護団の主張を見守っていきたいと考えています。

TVコマーシャルの破産と著作権法

 著作権法について言えば、その齟齬がTV放送の存在にまで影響してきています。先般民放連会長が定例記者で「DVD録画再生機を使ってCMや見たくない場面を飛ばして番組を録画・再生することが、著作権法に違反する可能性もある」「電機メーカーなどに何らかの対応を求められないかを検討するため、民放連で研究部会を設けた」という発言したことを受けて、ネット上では論議がわき上がっています。確かに最近のDVD録画再生機は性能が上がってきていて、上記のような機能が付いてきていることは私も知っていました(私はTVの録画再生というのをほとんどしない人ですから、実際には知らないのです)。彼らが言うには、「放送は1時間すべてが著作物と考える学者もいる。いろんな問題を含んでいる」。つまり、CMを勝手に削除する機能は著作権法に違反しているのではないかという主張があるわけです。

 民放というのは、スポンサーの資金によってTV放送を維持していく以上、CMの存在は死活問題であることは分かります。しかし、時代の変化を法律のごり押しによって止めることはできません。社会の生活スタイルが変わってきているのです。かって自分たちは「映画はもはや古い。時代はTVだ」と豪語したことは忘れ、自分たちのビジネススタイルを固持しようとしていることを理解してないようです。戦後間もない頃、庶民の楽しみは家族総出で映画に出かけることだったわけですが、TVの普及によって茶の間で野球やプロレスを楽しむようになったわけです。こうした時代には社会の単位は家族でしたが、もはや社会の単位は個人にまで細分化され、生活スタイルは個々人に分解されてしまったわけです。そうした時代においては、リアルタイム性よりも個々人の生活スタイルに合わせた視聴が一般的となっていたわけです。映画が生き残ったように、TVも多分生き残っていくでしょうが、従来と同じというわけにはいかなくなってくるでしょう。甘い夢を見た民放経営者にとってはこのライフスタイルの変化という事実は見えてこないばかりか、自分たちの都合で縛り付けようと考えているのです。新しいビジネスタイプを模索する必要がある時、著作権法を持ち出してくる神経が時代錯誤と言えるのです。番組とCMは一体の著作物で、それを切り離すことは著作権法の違反かもしれないなんて論理は、一般社会人にとってはとても受け入れられない論理です。音楽業界も「興行」「レコード」「CD」から「カラオケ」「インターネット配信」と時代の流れに対して少しずつ変化してきています。TVとCMの関係も新しいビジネスモデルの模索が必要となってきていると言うことでしょう。

とりあえず勝訴こそが大事

 Winny裁判の行方もこうした流れのなかにあるわけですが、まだ著作権法をひっくり返す土壌が整ってない現在、負けない戦いこそが有効ではないかと私は思っています。




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