OMATSURIKOZO's talk salon


ランダムアクセス 2005年5月号
連載217回

インターネット株取引も
なかなか甘いモンじゃないな

「パソコン通信」からインターネットへ
今月は少し懐古に走ってしまいました
 


お祭り小僧のランダム・アクセス

山の緑が毎日毎日濃くなってきます。遅咲きの桜も春の雨にたたられてあっという間に散ってしまい、どこかはっきりしない春の幕開けでしたね。そんな春の始まりにもかかわらず、山々の新緑への移ろいは目を輝かせるものがあります。命の芽生えを喜ぶ季節であり、迎え来る初夏の香りをいっぱいに楽しむ季節でもあります。今年のゴールデンウィークは暦の作りがとてもよいので、皆さんどんな計画を立てているのでしょうか。私は、昨年の上海・桂林の中国旅行から続いてシルクロードを考えていたのですが、女房がラスベガスを提案したのであっさりと了承してしまいました。ゴールデンウィークが近づく頃、中国は突然の反日デモ騒動で、「今年はアメリカにしておいてよかったね」と女房に言われ、頷くしかありませんでした。10億人のうちデモに参加しているのはせいぜい10万人程度ではないかと嘯いてみても、あの大きな国でうねりのような不満が反日という一点に向けてこられたらたまったものではありません。小泉さん、あなたの行き当たりばったりのアジア軽視政策がこうした流れを生み出してきているのですよ、少しは反省してくださいよと言ったところで、あの人の頭の中には「反省」なんてものは生まれてこないでしょうね。困ったものだ。

株取引も難しい

 さて、このところ調子よく上向いていた株価が底が割れたように一度に下がってしまいました。これの要因のひとつに中国の反日デモがあるわけですが、このことは差し置いて、株の動きというものはやっぱり分からないと言うのが正直な気持ちです。確かに株式売買の手数料がインターネット取引が可能となってきてから非常に安くなり、個人投資家というか、デイトレーダーが大きな顔をするようになってきました。実は、私もこのところ「俺ってなかなかやるな」って自信を持っていたのですが、4月の暴落に戸惑ってしまったわけです。何回か「株は面白い」という記事をこのコラムで書いたわけですが、それはその通りなのですが、やっぱり株取引は恐いと言わざるを得ません。最近「100万円を数年で5000万円にした」なんて記事をみていると、「やっぱりな、やる奴はやるんだ」なんて、自分の株取引を振り返って自信を深めていたのですが、この暴落に参ってしまいました。「株式売買の日記を書け」というコメントを出す人がいましたが、これは本当に正しい。取引を繰り返す内に色々な教訓めいたことが出てきます。ところが人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるって事、これって本当ですよね。よっぽど痛烈に痛い目に遭わない限り、全ての反省は自分の都合の良い反省にすり替わってしまいます。ところがその時々で書きつづられている日記には、その時々の動揺とか迷いが書き込まれていますから、後で読み返せば「その動揺や迷いからこの道を選んだ」という事実を知ることが出来ます。反省が都合の良い反省にすり替わることはありません。さて、今回の失敗は「損切り」のタイミングを失したと言うことなのです。逃げなくてはならない時に留まってしまったら、とうとう逃げ場を失ったと言うことです。具体的に言えば、3月末の配当確定日に「配当」と「損切り」を秤にかけて、「配当」に目がくらんでそのまま持ち続けたところ、そのまま株価が一気に下降してしまったのです。うーん、本当に株取引は難しいものです。とはいえ、このまま逃げ出すつもりはありません。定年後の収入確保の確実な取引テクニックを掴むつもりです。

パソコン通信から

インターネットへの思い出

 最近のPC状況はまったく停滞したままで、たまに読む雑誌も「自作」「ネット」等々、同じ内容の蒸し返ししかない。と言うことは私の話もその通りで、これと言ったスペシャルな話題は登場のしようもない。ところがパソコン世界を通じて普及したインターネットは、もはや生み出された当時の想定を大きく越えて世界の政治・経済にも大きな影響を及ぼすものになってきている。私の株取引もインターネットと株式取引料の自由化というタームがなければやってなかったであろうし、中国の反日デモもインターネットがなかったら行われていなかった可能性が高い。そこで、今月はパソコンとパソコンを繋ぐという概念の誕生であった「パソコン通信からインターネット」への流れを回顧してみようと思う。

始めてのパソコン通信

 私がパソコンを始めて購入したのは1983年で、PC9801が登場した翌年のことだったように思います。当時、パソコンのプログラムは自分で書くというのが常識で、パソコンはベーシックを勉強するものだという考えが強かったのですが、そろそろアプリケーションソフトも登場してきていました。パソコンを巡る情報というのは本当に少ないもので、スペシャルな話題がないものかと仲間同士のクラブが生まれてきていたものでした。このパソコンクラブが少しずつ変化し始めたのが「パソコン通信」の誕生です。アメリカでは1980年頃から商用のオンラインサービスが始まっていましたが、日本ではまだ通信自由化が行われていなかったため、電話線を通話以外の方法で使うという手段が許されていなかったのです。ところが1985年、電電公社の民営化と通信の自由化が行われました。これによって、モデムを個人が購入して自由に通信することが可能になったわけです。といってもすぐさま商用のオンラインサービスが始まったわけではなかったのですが、BBS開設の簡単なプログラムやログインプログラムが雑誌などで公開され、小規模の実験ネット、草の根BBSが生まれてきました。パソコンそのものが面白かった。自分がキーボードに打ち込んだ文字がディスプレィに表示される、それだけでも面白いのに、打ち込んだプログラムを走らせるとキャラクタ文字が画面上を走り回ったり、計算をしたり、とにかく自分の命令でパソコン画面を制御できるという概念に夢中になったものでした。当時は自分のパソコンを制御すると言うことだけでも新鮮であったのですが、モデムを購入し、電話回線とパソコンを繋ぐと自分のパソコン以外にもアクセスできるという概念にまたまた驚いたものでした。さっそくモデムを購入し、電話回線をパソコン部屋にまで引き込み、実験的に運営されている草の根BBSを探し出してアクセスしたら、先方から文字が送られて来るではありませんか。こちらから文字を打ち込むと、その文字も返ってきますが、その草の根BBSに書き込んだ文章はまた他者から反応がある、パソコンが家の中だけにいるのではなく、電話を通じて他のパソコンと繋がっているという事を感じた時の新鮮さは今でも忘れられません。通信速度は本当に遅く、キーボードから文字を打ち込んでいく位のスピードでしたから、送られてくる情報(本当にたわいもない情報だったでしょうね)はそのまま読めたものでした。

 1987年頃には、モデムスピードも上がり、NiftyやPC-PANなどの大型の商用サービスが始まり、パソコン通信文化が発展し始めます。パソコン通信サービスは電子掲示板、チャット、メールボックスで、ユーザーは用意されたアクセスポイントに電話をかけ、モデムによる接続を行うわけです。当時私は地方の友人達とのコミュニケーションに草の根BBSを利用し、遠くの友人達とはNiftyやPC-PANなどの商用オンラインサービスを使っていました。1995当時になると商用オンラインサービスは巨大なデータベースになってきましたが、NiftyとPC-PANは別々のデータベースで繋がることはありませんでした。あくまで、用意されたアクセスポイントに繋ぐと、そのサービスへのアクセスが出来るだけという状況だったのですが、その状況に取り立てて不満があったわけではありませんでした。

インターネットの登場

 ところが、1995年にアメリカの友人宅に遊びに行った時、彼がインターネットの接続を見せてくれたのです。当時知識としてはインターネットの存在は知っていましたが、またひとつの新しい商用オンラインサービスが誕生したのだろうとしか認識していなかったのです。当時の私の頭の中では、アクセスポイントに接続してその閉じられている世界(閉じられているという認識も少なかった)にアクセスすると言うことがパソコンを通じた通信だったのです。ところがそのインターネットの情報は従来の文字情報だけでなく、画像データもあるだけでなく、アメリカから日本の大学のホームページにも簡単にアクセスできたのです。つまり、パソコン通信の世界では常識であった「会員だけの閉じられた世界」に対し、インターネットはアクセスポイントに接続したら後はどこにでもアクセスできるわけだったのです。この概念の違いはまったく衝撃的でした。パソコンとパソコンが通信できるという先進性の認識を持っていながら、グローバルなネットワークという概念まで思い至ってなかった私は、友人のMacから広がるインターネット世界にようやくパソコン通信とインターネットの違いを認識したわけです。

インターネットは常時接続が常識

 変わり身の早い私は、当然日本に帰って仲間達にインターネットの面白さやパソコン通信との優位性などを語ったものでした。当時日本にはまだまだ商用のインターネットプロバイダは少なく、アクセスポイントも地方にはありませんでしたが、半年も経つとアクセスポイントの数はあっという間に増えてきました。そこでプロバイダを決め、インターネットアクセスを始めたわけです。当時インターネット接続にはISDN回線を利用していましたが、接続料金がもったいないという理由で、パソコン通信時代と同じく、読みたい情報にアクセスをすませたら即座に切り、また接続すると行った使い方をしていましたが、常時接続の時代に移行していきました。ケーブルテレビ局が始めた実験常時接続に参加し、固定料金でインターネット常時接続が楽しめるようになったわけです。そうこうしていく内に日本中にADSL旋風が巻き起こり、今ではインターネットと言えば常時接続というのが常識で、電話回線を接続したり切ったりすると言うことはなくなってしまいました。思えばまだインターネットを経験して10年ほどなのですが、あまりの進歩の早さにちょっと前のことですら忘れてしまっている私がいます。町を歩いていて、取り壊されたスペースを見つけた時、ここには何があったかはっきり思い出せない。ましてや、新しい建物が建ってしまったら前の建物のことなどまるっきり思い出せいと言ったことと同じなのでしょうね。

インターネットが作った世界インフラは何を夢見る

 インターネットはもはや私達の生活とは切っても切り離せないものとなってきています。中国のような社会主義体制国においてもその影響は大きなものとなってきています。デマゴーグと真実が同居する奇妙な怪物であるインターネットは、これから先どんな夢を見せてくれるのでしょうか。期待と畏れを抱きながら私もインターネットと拘わっていくのでしょうね。




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