OMATSURIKOZO's talk salon


ランダムアクセス 2007年1月号
連載236回

新年、明けましておめでとう
めでたさも中位なりおらが春

長い間の愛読、本当にありがとうございました
また、機会があったらお会いしましょう


お祭り小僧のランダム・アクセス

 明けましておめでとうございます。少し暖かい冬で、今のところ過ごしやすいとは思いつつ、凛とした緊張感のない2007年の始まりを迎えそうです。

 昨年末に大森局長から「PC通信」の休刊について連絡を受けました。よく考えたら私も20年以上PCユーザーズ連盟に拘わってきたわけです。大森局長、本当にご苦労さまでした。この間の20年というと、私の壮年時代そのものだったといえます。幼年時代、少年時代、青春時代、壮年時代、老年時代と人生を分けると、壮年時代が一番持続するパワーを要する時代です。だとすれば、その時代を共にした「PC通信」は、私の壮年時代そのものだったと言っても過言ではないでしょう。ひとつの時代が終わった、と今実感しています。当時「特別なもの」であったパソコンは、今やその姿をTVや携帯電話に忍び込ませ、携帯メールが当たり前のコミュニケーションとなってしまいました。今月は少し想い出話に浸ってみましょう。

「日本PCユーザーズ連盟」との出会い

 技術評論社の雑誌「THE BASIC」にクラブ紹介が載っていて、「日本PCユーザーズ連盟」といういう大仰な名前を付けたクラブが岡山の片田舎にある事を知りました。連絡をとると手書きをコピーしたような小冊子が送られてきた事を思い出します。パソコンを最初に買い込んだのがPC6001(PC9801が発売された同じ月だと後で知りました)、次の月にはPC8801を手に入れ、パソコンで何を遊んだらいいのか分からないまま、手当たり次第に様々な本に手を出していた頃でした。「パソコンを使おうと思ったらBASICを勉強しなければならない」と言った思いこみが強い時代で、私も雑誌に載っているプログラムをシコシコと打ち込んだこともありました。それをロードさせると色の変わるドットが画面を点滅すると言うだけのものでしたが、ただそれだけの事が非常に新鮮でした。当時はカセットテープレコーダーでソフトをロードする時代から、フロッピーディスクに変わり、スタンドアローンであったパソコンから電話を通じてパソコン通信が出来る時代に変化する、大変ドラスティックな時代でもありました。パソコン関係の雑誌が発売されてはいましたが、その厚みも薄く、中身も貧弱なものでした。「何か面白い事はないか」と裏情報を求めて、パソコンに魅せられた者達は互いの情報を交換する場所を求めていたのです。私達はそんな状況の中で「日本PCユーザーズ連盟」に集ってきたのでした。

パソコンとワープロ

 当時の「PC通信」の話題の中心はNECのPCシリーズとその周辺の動向や、ソフトのコピー技、裏情報といったものでした。「日本PCユーザーズ連盟」の当初の中心機種はPC8801でしたが、PC9801VMと言う機種の登場でPC9801へと移行していきます。パソコン通信とPC9801VMが私達の中心話題であり、私達はPC98のパソコン伝道者を任じてもいました。当時、パソコンと共に人気を集めていたIT器機にワープロがありました。「パソコンはどうも近寄りがたいが、ワープロなら扱えそうだ」と感じる人達に受けいれられ、パソコンの出荷台数を上回っていた事があったと思います。各社が変換速度、変換効率、編集の容易さを競ったものでしたが、データの互換性という点にはあまり関心を抱いていませんでした。ワープロユーザー達は「手書き」文書を綺麗な「印刷」文書にしたかっただけですから、セーブ機能までないといったものまで発売されていました。私は「パソコンはソフトを走らせれば、ワープロにもゲーム機にもなる」と言った話を良くしたものですが、一番の問題はデータの互換性にありました。パソコンのワープロソフトも当然たくさん発売され、一時代を風靡して消え去ったものがあったり、「一太郎」のように今なお生き続けているものもあります。しかし、初期のワープロソフトにはまだデータの互換性という概念はありませんでした。PC9801にはふたつの顔があって、ROM-BASICで立ち上がる顔とMS-DOSというOSで立ち上がる顔がありました。初期のプログラムの多くは、ROM-BASICの上で走るソフトであったため、データは独自のフォーマットで記憶されたため、そのソフトでしか読めないものでした。しかし、「一太郎」の登場はPC9801のスタイルを一新してしまいました。「一太郎」はMS-DOSと言うプラットフォームの上で走る最初の普及ワープロになったのです。データはテキストとアトリビュートを分けて保存していたため、他のソフトからもテキストだけは簡単に読む事が出来ました。その後のパソコンのビジネスソフトはこうした流れの中に開発されてきたため、私達はプラットフォームの重要性を認識できるようになってきました。ワープロのなかにもこのような流れを理解して、データの互換性を重要視し始める機種が登場し出すのですが、これがワープロの独自性を否定し汎用性に溶け出してしまう事になるわけです。そしてワープロはいつしか消えていったわけです。

PC98黄金時代

 日本のパソコンは、パソコンという商品を目指して作られたものではなく、汎用チップ(CPU)の販売拡大を目指してキットという形で生まれたものだと知っている人は今では少ないでしょう。4004という伝説の4ビットCPUの誕生についての逸話を先日若い人に話したら、珍しい事を聞いたという顔をしていましたから、パソコンの黎明期の逸話を承知しながら現在のパソコンを扱っている人達は本当に少数なんでしょうね。そう言ったいきさつかどうか分かりませんが、私がパソコンに出会った当時、パソコンは各会社毎に多くの機種が発売されていて、それぞれは別々のハードとソフトで構成されていたため、ソフトはそれぞれの機種毎に作られ、他の機種では走らないものでした。そこで各社は自社のパソコン拡大のため、様々な手法を繰り出し、こうしたパソコン戦争のあげく、NECのPC9801シリーズはぶっちぎりの独走に入ったのです。こうした流れに対して、国産OS(TRON)やATコンパチに準拠した標準機の立ち上げが生まれましたが、結局はPC9801の牙城の前に崩れ去ってしまいました。エプソンの98互換機と東芝のダイナブックが唯一98を脅かしたのですが、ノートパソコンという新しい分野においてもNECの巻き返しは凄まじく、98天下は覆らないだろうと殆どの人は思っていました。

DOS/V黎明期

 ところがNEC98の瓦解は思わないところから生まれてきました。日本で98が主流を占めている内、世界中にATコンパチ機が爆発的に普及し始めていたのです。日本語という特殊な言語を扱わなければならない日本の特殊事情(漢字ROMの搭載)が98を守っていたのですが、CPUの性能向上で漢字が特殊なものではなくなってきたのです。ATコンパチ機上で中国語やハングルなどの多言語を走らせる各国独自のMS-DOSが登場してきていたのです。日本でもDOS/VというMS-DOSが日本IBMから発売されたのでした。NECは当時世界では主流になり始めていた新しいCPUの搭載を遅らせていたため、いつでも最先端を走っていたいと思う人達から見放され始めました。NECの経営陣は「そうした人達はマニアで、多くの人はそんなものを望んではいない」と語っていましたが、全世界で生産が拡大していたATコンパチの汎用品の安い価格は先進的な人にとっては魅力的で、個人輸入などで手に入れた高速ATコンパチにDOS/Vを入れて新しい世界に乗り出し始めました。98とATコンパチは、基本的には同じMS-DOSマシンでしたから、データに互換性がありました。つまり、基本的なソフトさえあればもはや98に縛られる事がないと分かったのです。この上に、コンパックやデルが日本にやってきたものですから、「黒船来襲」となったわけです。我がクラブの出射氏に彼のファイラーソフト「FD」のATへの移植を促したのもそんな時代でした。

Windows95の登場

 それでも98の人気はなかなか根強く、DOS/Vマシンが主流になるなんて殆どの人達には信じられない時代でもあったのですが、Windowsがそれを決定的にしてしまいました。DOSからWindowsへの移行期には、98からDOS/Vへの移行に重なったため、多くの人に戸惑いを与えたものでしたが、時代は確実にWindowsへ、しかも98Windowsではなく、ATコンパチWindowsへと進んでいきました。

インターネット時代

 Windows95の登場は、単純にWindows3.1からのバージョンアップではなく、大きなメルクマールを持っていました。日本においては、だんだん98独自の桎梏から新しいWindowsの移植が難しくなり、エプソンが98互換機から降り、NECも我が張れなくなり始めたきっかけでもありました。それよりも大きなエポックな事は、インターネットを取り込んだと言う事です。インターネットはWindows95登場以前から生まれていましたが、その数年前ネットスケープの登場で大きな広がりを見せ始めていたのです。ずっとパソコン通信を続けていた私にとって、インターネットは画像データも送受信できるパソコン通信だと思っていました。テキストデータしか扱えなかったパソコン通信ではありましたが、初期の通信速度ではモニター画面に現れる文字を目で追って読める程のものでした。それがつたないと思うより、誰かが私のパソコン画面に言葉を打ち付けてきているのではないかという錯覚を感じさせる感動もあったものでしたが、それが通信速度が上がり、画像まで十分に送れる世界になったのかと思っていたものでした。ところが私がアメリカに住む友人宅に訪ねた時、彼がインターネットに接続して、日本の大学のHPにアクセスして見せてくれた時、「これはパソコン通信とはまったく違うものだ」と感動したものでした。日本に帰ってすぐ仲間達に「もうパソコン通信は済んだ。これからはインターネットだ」と叫んだのは、「98は済んだ。これからはDOS/Vだ」と語った時以上のものでした。ひとつの大きなデータベースにたくさんのパソコンを繋ぐという発想に対して、網の目上に張り巡らされた情報にアクセスするという概念はまったく新鮮なものでしたが、それを言葉にしようとしても今までの私の知識では言葉には出来ませんでした。ただ、これは違うと感じたのは、Windows3.1時代に家庭内LANに挑戦し始めていたからです。Windows95のもうひとつのエポックに、LAN構築を容易にしてくれた事です。今では当たり前となっているLANですが、当時家庭内や小さな職場でLANを構築しようとするとなかなか難しいものがありました。メモリの制約やLANの概念の勉強不足によるものでしたが、この体験が私にインターネット概念を瞬間にイメージさせてくれたわけです。当時のインターネット接続はパソコン通信と同じくダイヤルアップ方式で、常時接続なんて夢の世界でした。しかし、今ではいつでもインターネットに繋がっている事が当たり前の世界になってしまいました。本当にインターネットは生活を変えてしまったと言っても過言ではありません。世界中どこに行ってもインターネットに接続できる環境さえあれば、メール、データのやり取り、あげくは電話まで可能な世界ですし、調べものについても検索を巧く使えば大抵の情報を手に入れることができます。今、インターネットの弊害について警鐘を鳴らしている人もいますが、どんな便利なものについてもそれは言えます。インターネットはまだ過渡期のものなのでしょう。いま、世界中はグローバル化の波に大きく動いていますが、一方でEUのトルコ疎外、中国・韓国・日本の齟齬、キリスト文化対イスラム文化などのナショナリズムの動きも出てきています。インターネットがそうした対立を抑え、新のグローバリズムに貢献できる事を願っています。

ひとまずさようなら

 長い間私の四方山話に付き合ってくださり、本当にありがとうございました。大森局長から、「また何かの方法を使って、季刊のように形で続けたい」と言った話も聞いています。その時にはまた私の四方山話に付き合ってください。ひとまず、御礼まで。


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