OMATSURIKOZO's talk salon


ランダムアクセス 2009年6月号
連載243回

長い間お世話になりました
私も還暦、暫しお別れです

還暦旅に「満州」に行ってきました
昭和の日本って北朝鮮と似てるね


お祭り小僧のランダム・アクセス

 新緑が芽吹き、薫風薫る季節がやってきましたが、皆さんお元気でやってますでしょうか。私もとうとうこの5月に満60才を迎えました。長い間書き続けてきた「ランダム・アクセス」も今月をもって終了すると言う事になり、ひとつの区切りを迎えた思いに感無量です。

還暦旅に「満州」に

 60才を迎えるに際し、一度昭和史を振り返ってみようと、かっての満州、中国東北部へ旅行してきました。例によって女房と一緒のツアー旅行です。こんな旅を企画した私に、女房は「なんだか修学旅行みたいであまり楽しくなさそう」とぼやいていましたが、買い集めた旅行ガイドと満州関係の本を読み、少しずつ興味を持ち始めてくれたようでした。昨年は女房の退職記念旅にベトナムに行ったわけですが、その時には浅田次郎の「蒼穹の昴」を持っていき、科挙と宦官がもたらした清朝末期とベトナムを照らし合わせながら旅をしたものでした。その後、「蒼穹の昴」の続編とも言える「中原の虹」という張作霖を主人公にした清朝末期から辛亥革命時代を読んだものでしたから、余計に満州への旅行を思い立ったわけです。日本の近代史において、遼東半島を含む中国東北部は非常に重要な位置を占めていて、その占有権を巡って中国ばかりでなく、世界を相手にした戦争へと突き進んだわけです。現実の東北部といえば、かっての日本占領下の時代などとはうって変わり、ハルビン、長春(新京)、瀋陽(奉天)、大連は全て数百万の大都市ばかり、想像はしていたものの、驚くばかりでした。それぞれの都市には列車移動で、旅窓からは広々とした畑が広がり、「ああ、これが満州の大平原か」と感嘆しました。汽車移動の時間には昭和の満州支配の歴史を読みながら、うろ覚えであった昭和史を復習して、「よくもまあ、こんな傲慢な事をしたものだ」と感嘆してしまいました。「中国人は日本人を悪く言うが、日本人は満州に多大なインフラを作ってやったぞ」とか「西洋にやられっぱなしの中国を日本が守ってやった」などという戯言を言いますが、今では確実な歴史となっている資料を見る限り、日本が中国を食い物にしたという事実は認識しておくべきだと思ってしまいました。軍部が描いた世界戦略に政府と国民が追随してしまった歴史をきっちりと総括しておかないと、再びの暴走に歯止めはかけれません。「平和が大切だ」という平和主義者にも少し違和感も覚えていた私は、今回の旅で「平和を維持するためには絶対に経済を維持して行かなくてはならないのだ」という認識を持つようになりました。
  日中戦争を引き起こした軍部中核の思想は、「世界戦争は避けられない。この戦争は西洋と東洋の雌雄を賭けた大消耗戦だ。これに勝利するためには国家をあげた総動員態勢を作らなければならない。資源の少ない日本がこの戦争で優位に立てるのは中国の資源が必要だ」と言うもののようで、景気のいい話に国民が乗せられたと言う事です。「満州引き揚げ者は本当に大変だった」と言う事は事実ですが、満州に渡った人はその地ではそれなりに良い思いもした事を忘れてはいけません。世の中、景気のいい話とか大儲けできると言った話ほど恐ろしいものはないです。眉につばをつけて、おかしい話には乗らないようにしましょう。

最近のマスコミはちょっとおかしい

 おかしい話と言えば、スマップ・草薙君の家宅捜査です。彼が捕まった晩のニュースやワイドショー、よくもこんなに流すものだと驚いていたら、家宅捜査まで行われたと言うではないですか。そのニュースを流している人達は「事実を事実として」報道しているとは言えるのでしょうが、尿検査で何も出ていないただのヨッパライ事件で家宅捜査までしている事に驚きはなかったのでしょうか。こんなものは基本的人権の侵害に当たりますよ。どれだけの人がこの報道に疑問を持ったのでしょうか。もうひとつ、民主党の小沢元代表の辞任劇です。政権交代が行われるかもしれないこの時期に、第一秘書の逮捕を大疑獄事件のように報じ、多くの人達が「やっぱり小沢は金権政治の申し子だ」と思わしてしまいました。あれだけの報道によって「検察は何か掴んでいる。やっぱり小沢はクロだ」というイメージを定着させてしまったのも事実です。検察が「小沢はクロだ」というのなら、さっさと裁判を始めればいいものを、なかなか始めないのもおかしいと私は思っています。今回の豚インフルエンザもしかりです。このところのマスコミの過剰な一方的な報道は情報操作以外何ものでもない、と思う一方、これに簡単に乗ってくる国民なら戦争にだって景気のよい話に纏ってやればたやすいものだと考える事も出てくると危惧してしまうのは私だけでしょうか。

25年間の思い出

 さて、本題に入りましょう。長い間続けてきた「PC通信」も今月で終わりです。横着者の私にとって、原稿の締切は本当に刺激でした。締切という期限がなかったらずるずると日を過ごしていた事でしょうが、月に一度その時々の思いを書き付けるという行為によって、ある意味での区切りをつけながらこの25年間を過ごしたように思います。今月はこの25年を振り返って少し四方山話を書いてみようと思います。

 私が「PC通信」の大森局長に出会ったのは、まだ「PC通信」がガリ版刷りの頃です。当時パソコン雑誌の読者欄には多くのパソコンクラブの紹介が載っていて、そのひとつに面白い記事をたくさん載せているクラブが「PC通信」だったのです。おずおずとクラブに仲間入りをしていたら、「一度原稿を書いてみませんか」という局長の言葉に誘われ、いつの間にか常連投稿者となっていました。そう言えば、「元気の出るパソコン通信」という雑誌も出しましたね(あの本、どこに行ったのでしょうか)。当初は毎月局長からの課題が与えられていたのですが、そのうちページ数での依頼に変わり、「それでは連載という形にしてくれ」と頼み、「ランダム・アクセス」が始まりました。その連載が今回で243回、20年を越えてしまったわけです。当初は「PC通信」のなかで後ろの方に掲載されていたのですが、だんだん力が入ってきた私は「是非巻頭ページにしてくれ」と局長にねじ込み、長い間巻頭ページに載せていただいたのです。思い出すだけで数々の思い出が走馬燈のように流れていきます。「日経パソコン」のクラブ紹介に取り上げられ、記者がわざわざ我々の処までやって来、馬鹿話に花を咲かせた事。日本IBM社がDOS/Vを立ち上げ、その意義を「PC通信」で取り上げたところ、コンシューマ部長がやって来、出射さんがファイラーを移植すると約束した事。8801を中心としたNECパソコンの黎明期とDOS/V黎明期のふたつの大波に出会えた事。本当に楽しい時代でした。

おもちゃからビジネスツールへ

 私が出会ったばかりの頃の局長は「パソコンは趣味世界のもので、それ以上でもそれ以下でもない」と言った認識でしたが、私は「パソコンはどうも次の文化の中核になる」と論争をした覚えがあります。当時の私達は、パソコンをおもちゃとして考え、プロテクト破り、ソフト収集、裏情報といったかなりマニアックな存在でしたが、パソコンがワープロを駆逐していく過程で、「おもちゃとして遊びたいパソコンとビジネスツールとしてのパソコン」が混在し始め、Windows時代(DOS/V時代)を経て、インターネットを中心としたネット世界になって至ったわけです。

最初のパソコン通信

 それぞれの転換期にはいつも驚きと戸惑い、期待が同居していました。最初の転換期はパソコン通信の登場でした。自分のパソコンが電話線を通じて他のパソコンにアクセスできるなんて想像もしていなかったものですから、最初に自分のパソコンとホストパソコンに繋がった時は感動したものでした。初期の通信速度は非常に遅く、送られてくる文字データはそのままディスプレィで読みとれていたものでしたが、だんだん通信速度が速くなり、データをセーブして読み直さなくてはならない事になった頃には、その感動もだんだん当たり前のように変わっていきました。それだけ通信速度が速くなったとは言え、当時のパソコン通信で画像のデータ転送は夢のまた夢でした。今や当たり前になっているインターネットの動画通信などまだ当時は想像もつかない思いでした。

8ビットから16ビット時代へ

 8ビット時代から16ビット時代にも大きな転換がありました。私達のクラブでも、それぞれの転換期にはいつも論争がありました。8801が中心だった我がクラブにも16ビットの9801が普及し始め、記事の内容もだんだん98中心になると、「88の記事が少ない」と言った苦情も出てきた事も思い出します。当時我がクラブには8ビットのマシン語に相当強いメンバーがいたのですが、16ビットのマシン語への移行に躊躇したまま、クラブから去っていた人もいました。より深く関われば拘わるほど移行が難しいのは、その後も多くありました。

DOS/V登場

 おもちゃとしてのパソコンから「一太郎」と「123」の時代に入り、98全盛時代にDOS/Vの登場です。アメリカからIBMコンパチ機を輸入すればその上にDOS/Vを走らせようと言う試みが始まりました。NECが98全盛に胡座をかき、新しいCPUをなかなか発売しない苛立ちのなかDOS/Vが登場したのです。アメリカにFAXを送り、届いたタワー型パソコンに驚いたのは私だけでなく、我がクラブにもDOS/V時代が始まりました。グラフィックカードを最速のものに取り替えたり、パソコンの中身をさわっているうち、とうとうみんな自作パソコンに走り出してしまいました。当時98しか持っていなかった出射さんも、日本IBMから借りたパソコンでファイラーを移植したに留まらず自作パソコンに嵌ってしまいました。今思い起こすとこの当時が一番パソコンが面白かった時代のように思います。集会所に持ち寄ったそれぞれの自作パソコンを自慢しあい、ワイワイガヤガヤと何時間でも喋りあったものでした。

Windows時代へ

 次の転換期といえば、DOS時代からWindows時代への移行です。我々の仲間内でも、「DOSで十分ではないか。何故Windowsに移行する必要があるのか」と言うものと、「やっとパソコンが大衆化できる機能を持ったのだ」と評価するものとの間で暫し論争が展開された事を思い起こします。直感的な感覚で操作できるWindowsはある意味でパソコン史のなかの革命でした。初期のパソコン能力ではまだまだ解像度が悪かったり、描画速度が遅かったり問題も多くありましたが、パソコンがこれだけ普及したのはやはりWindowsのおかげでしょう。98の息の根が止まったのもWindowsの故です。DOS時代には裏技で様々な操作ができていたものが、だんだんシステムが複雑になり、表面的には使い勝手がよくなる反面、裏技が通用しなくなってきたWindowsは、98システムでは対応できなくなってしまったのです。今ではWindowsパソコンをIBMコンパチ機などとは誰も言わなくなっていますが、98が主流であった移行期にはしばしば混乱もあったものです。

インターネット時代へ突入

 最後の大転換が、インターネットです。自分のパソコンと他のパソコンを繋ぐというのはパソコン通信でもやっていましたから、当初インターネットはパソコン通信の一種だと私は思っていたのです。ところがアメリカの友人宅で始めてインターネットを経験させて貰った私は、「こりゃ、パソコン通信とはまったく違うものだ」と直感してしまい、帰国して友人達にもうインターネットの時代だと熱に浮かされたように語ったものでした。ひとつの大きなホストに繋がっているパソコン通信と様々な拠点にデータが集積されていてそこに自由にアクセスできるインターネットはまったく別物だったのです。その上、WEBブラウザを用いてアクセスすると画像まで簡単に見る事が出来るのです。しかし当時はまだ地方にはアクセス基地が無く、近くの大都市にあるアクセス基地まで電話を繋いだりもしていました。自分達が住む町に基地局が出来ると、メールアドレスばかりでなくホームページ用の容量まで提供されていました。早速自分達のホームページも作らなければと、今日まで続いている「お祭り小僧のホームページ」の原型が生まれました。当初は、通信は時間制が主流でしたが、徐々にその制限が撤廃され、とうとういつでもどこでもインターネットという時代になってしまいました。たしかに初期のインターネットと現在のインターネットはその幅の広さ、操作性、様々な点で進化してきていますが、基本的なものは同じです。

最近は面白いものに出会えない

 私がインターネットと出会ってから、もう15年近くになります。その後、パソコン世界で大きな転換期が起こらず、新しいものが出たところで私の「想定内」のことばかり。だんだんパソコンに夢を感じなくなっている理由はそんなところにあります。パソコンと出会ってからの10年間はさっき話したように色々な転換期に出会い、その方向性に自分も参加していたという気概を持っていましたが、近年では本当に優秀なプログラマー達によって作られたソフトを使わせて貰っているだけと言った感じになりすぼっています。そろそろ何か面白い大転換が起こらないかと密かに思う一方、こんなものだろうというあきらめにも似た気持ちでいます。どこかで生まれている新技術、知っている人がいたら教えてください。老骨にむち打って参戦しますよ。

又どこかでお目に掛かりましょう

 最後に長い間つたない文章を読んでくださった人達にお礼を申し上げます。もしも気が向いたら「お祭り小僧のホームページ」に新しい文章を載せたいとも思っています。ありがとうございました。

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